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式子内親王(1149-1201)の歌とその類歌


古典和歌は基本的に定型の題材・情緒を歌うから、類想歌は数限りなくあるわけですが。その巧拙の落差は果てしなく大きい。それをどのように文章で記述できるか、式子内親王(1149-1201)の歌とその類歌を並置して考えてみた。
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春きぬと空にしるきは春日山峯の朝日の気色なりけり
春もまづしるく見ゆるは音羽山峯の雪よりいづる日の色(式子)

ひぐらしの声する山の松蔭に岩間をくぐる水ぞ涼しき
松蔭の岩間をくぐる水の音に涼しくかよふひぐらしの声(式子)

2つの類歌とも当時一流の歌人が歌っているが、而してこの落差がある。まず声調。類歌はともに上句・下句がぷっつりと切れ、情景(上)と感慨(下)と分断している。「なりけり」「涼しき」は陳腐な詠嘆にすぎない。一方、式子歌は上句・下句がひとつづきに流れ、さらに上句・下句の情景と感覚が混淆している。「雪よりいづる日の色」は、純白を表現する斬新な表現だが、それが「しるく見ゆる」と上句に回帰することで、いわば感慨が一首のなかで循環している。二首目の式子歌では「岩間をくぐる」のは「水」と「音」、両方ともに解釈できるが、そのことで岩間を「かよふ」涼しさがより鮮やかに感じられる。さらに水の音に「涼しくかよふ」のは「ひぐらしの声」-皆さんご承知の、あの夏の涼しい朝夕に鳴く声が、さらに水音の涼しさに重なり増幅する。類歌では単に「ひぐらしの声がする山」と言っているだけだし、「水か涼しい」といっても当たり前のことに過ぎない。式子歌の下句が体言切れになっていて詠嘆を伴わないのは、これだけ印象が鮮明に描かれれば、ありきたりの詠嘆を添加する必要は無いからである。こうして言葉・語感・感覚の混淆と増幅によって、式子の歌は類歌を遠く引き離した異様な完成度に達している。
(参考「式子内親王-その生涯と和歌」小田剛著 新典社 2012年)
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マエストロの名人芸(藤原家隆)

魂の遍歴(九条良経)

九条良経の日記「殿記」は僅かな断片が残るだけで、藤原定家の「明月記」のように伝記的価値のあるものではない。しかし良経には生涯を通じて歌があった。家集「秋篠月清集」はその38年の生の軌跡を随所に伝えている。初々しい感動に溢れる「花月百首」、定家と作歌を楽しんだ「二夜百首」、一族の失脚と逼塞を反映した「西洞隠士百首」、兄の急死や定家の母の死に際して詠まれた「無常部」・「哀傷部」の歌、そして愛妻の死と弟の発狂という変事の最中に詠まれた「院初度百首」。

「院初度百首」の翌年に詠まれた「千五百番歌合」の百首は、前年の出来事から立ち直り、心の平衡を取り戻しつつある良経の姿を伝えている。前者の冬歌や恋歌に見られた、果てしない絶望と虚無とは影をひそめ、伝統的な歌題を端正に詠んだ歌が多く見られる。しかし、その中にも癒されることのない悲しみがいくつかの歌に歌われる。例えば次のような歌に。

霜の上におのが翼をかたしきて友なき鴛の小夜深きこゑ

嵐吹き空に乱るる雪の夜に氷ぞ結ぶ夢は結ばず

行きかよふ夢の内にも紛るやと打ち寝るほどの心やすめよ

めぐり逢はむかぎりはいつと知らねども月な隔てそよその浮雲


しかし季節はめぐり、悲しみの癒される時が来る。良経の春歌は、冬歌と対になって春の歓びを歌う。それは凍てついた心の融ける時である。

山桜いまか咲くらむ陽炎のもゆる春辺に降れるしらゆき

あしかもの下の氷は融けにしをうは毛に花の雪ぞ降りしく


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福島の花見山

地下鉄の車内で、福島市の観光協会のポスターを見る。
山が一面の花園の、花見山の写真が実に美しく、
日曜日に朝早く家を飛び出して、新幹線に乗った。
福島駅からバスで15分ほどで目的地に。
それは素晴らしい所だった。
視界一面が満開の花!

笑顔一杯の大勢の方々と、山道をゆっくりと歩く。
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花の木の間から見えた福島市街。美しい福島!
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